現在の状況について
今はどんなお仕事をされているんですか?
鹿島スタジアム近くにある障害者施設「くるりん森」の運営を施設長として行っています。「おとなもこどもも、みんながあつまれる場」をコンセプトにした障害者就労支援・放課後等デイサービスとなっています。

現職までの経緯
ー現役引退後、鹿島アントラーズでコーチをされていたんですね?
はい。2009年までザスパクサツ群馬でプレーし、引退後は古巣でもある鹿島アントラーズのユース・ジュニアユースのコーチとなりました。自分のサッカー選手としての礎を築いてくれた鹿島アントラーズに恩返しできるという思いもあり、やりがいを感じながら仕事を行っていました。
ー転職されるきっかけがあったんですか?
当時、子供が生まれたばかりだったことや、地震も頻繁にあり妻も精神的に疲弊していました。これまでサッカー中心の生活を送ってきて、色んな経験を積むことができましたが、それも妻や家族の協力があってこそだなって。震災をきっかけに大切な家族を最優先する時だなって。かなり迷いましたが、そんな思いもあり家族と相談し一般企業で働こうと決意しました。
ー次の進路はどのように決めたんですか?
業種は問わず、収入がある程度あり、家族との時間を持てることを優先して仕事を探しました。自宅から近くで製造業の仕事がすぐに見つかり働き始めました。初めてのことも多く、最初は戸惑いましたが少しずつ経験を積み、家族も2人の子供に恵まれ生活することが出来ていました。
ー現在の施設で働くきっかけは?
ちょうど下の子が1歳を過ぎたあたりですかね。言葉がわからないながらすごく話そうとしたり、ミニカーを綺麗に規則的に並べたりすることが見られるようになりました。最初はパワフルだなとか几帳面だなとあまり気にしていませんでした。ですが上の子や周りの子と違うところを目にする機会が多くなりました。妻とも相談し一度病院に行ってみると、知的障害と診断がありました。その後、縁があり鹿島市内にある美空野(みその)保育園に通い始めました。自分の子供のためとは言え、周りの園児にも影響があるだろうし、その親御さんも心配だろうし。最初はとても不安でしたが多くの方の協力もありスムーズに通えることが出来ました。
美空野保育園は先生方をはじめクラスメイトもとても協力的でした。幼いクラスメイトたちも受け入れてくれて、息子も一緒に遊んでくれるんです。塞ぎがちだった息子が徐々に話すようになっていきました。「環境ってとても大事だな」って実感しています。また、そのクラスメイトへも自分の息子との触れ合いを通して、何かを感じるきっかけになってくれたらいいなとも思ってます。
ーその後、施設長に就任されたんですね?
はい。そんな保育園生活がなんとかスタートし息子の送り迎えをしていました。他の親御さんや先生方と仲良くさせていただいていたんですが、ある日園長さんから、3年後くらいをめどに障害者施設を開こうと考えてるから一緒に運営しない?とお誘いいただきました。息子のこともあり、そういった施設は重要だって考えていたので、すごく嬉しかったのを覚えています。
妻とも十分に話し合い、チャレンジすることを決めました。想定より大幅に早く開園し1年半後には施設長として仕事をスタートしました。

現職でのやりがいはどんなところですか?
スタッフ、子供たち、親御さん、みんなが笑顔になって帰っていくんですよね。大変な時もたくさんありますが、人を笑顔にできる仕事ができ充実した毎日を送れています。
施設長ですが分からないことだらけで毎日が勉強です。ただ、心強い専門的なスタッフに囲まれています。サッカーでもそうでしたが、チームとして難題に立ち向かっていくことにもやりがいを感じています。
サッカーキャリアやサッカー感について
サッカーキャリアを教えていただけますか?
小学生の頃サッカーを始め、中学・高校年代は鹿島アントラーズの下部組織に所属しました。高校年代ではトップチームの練習ゲームで抜擢されるなど、最高の環境で毎日トレーニングすることができました。小さい頃からこの鹿島アントラーズでプロサッカー選手になるって夢を持ちながらプレーしてきました。目の前にその夢がありましたが、最終的には契約に至らず、大学でレベルアップを図り、必ず戻ってこようと阪南大学へ進学しました。
大学4年生時に鹿島アントラーズへ進むことはできませんでしたが、Jクラブから社会人チームまで幅広くテストを受けました。最終的には地元にも近いザスパクサツ群馬へ入団することを決めました。
ー ザスパクサツ群馬での選手生活はいかがでしたか?
入団当初はチームがまだ県リーグでアマチュア選手でしたから、働きながらのプレーでした。草津は観光地ということもありホテルで働きながら毎日トレーニングしていました。トレーニング前後の早朝から仕事、遅い時間まで仕事という日もありハードな毎日でしたが、絶対にJリーグに上がるんだという一心で街や関係者全員が一致団結した雰囲気でした。
コンディションへの影響があったとしても仕事は全力で取み組みました。他のスタッフより短時間の就業ですから限られた時間で成果が残せるよう意識しながら。その時の経験が今でも仕事をする上でのベースになっていると思います。
そこから最短でJ2まで昇格しました。毎年半数以上の選手が入れ替わる中、試合に出場し続けられJリーガーになることが出来ました。10年近くサッカー選手をやってこれたことは今でも良い経験だったなと考えています。
よりよいセカンドキャリア準備のために
サッカーで身につけたことはありますか?
たくさんありますが一番は協調性だと思います。集団で勝利に向けてプレーする中で、ポジションや立場で意見は異なります。それぞれの考えを持ったチームメイトといかに勝利に向けて行動できるか?相手に話を合わせるのではなく、主張したうえでチームとしての最善を見つけて即実行する。そんな行動を何年も続けてきたと思います。また、サッカーはミスが必ず起きるスポーツです。そのミスをどう受け入れていくかも大切だと考えています。
ー 勝利に近づくために意識したことはありますか?
正解がない中、可能な限り前向きな発言をしながら、お互いの良いところを引き出すことを意識してきました。他責にするのは簡単です。その環境の中で、相手がどれだけ強くても、チームで結果を出すためにそんな行動を心がけてきました。この経験は仕事でもかなり活かせてるなって思います。
現在のお仕事はいかがですか?
サッカー界から全く別の世界に移って、なかなか熱中・夢中になれるものが見つかりませんでした。鹿島アントラーズでの指導後のサラリーマン時代は家族のためや、生活のためってわりきってやっていました。それでもいいと思いますが、やっぱり夢中になれた方がいいなって。くるりん森の運営はサッカー選手時代の感覚に近いんですよね。なんとかして良い施設にしていきたいって毎日試行錯誤しています。サッカー以外でそういう風に初めて思えました。
現在サッカーを頑張っている方々へアドバイスをお願いします
地域性などから選択肢の大小はあるかもしれませんが、引退後いきなり「これだ」って決める必要はないと思います。大好きだったサッカーを超えるものは簡単には見つからなくて当然ですから。自分の人生なので色々と挑戦しながら丁寧に選択していってもらえればと思います。


■就労継続支援A型(cafe くるりん)
■生活介護
■放課後等デイサービス
開所日時:月~金曜日/8時30分~17時15分
住所:茨城県鹿嶋市宮中4959-2
詳細はこちら >
寺田 武史(てらだ たけし)1980年生まれ
出身地:茨城県、ポジション:DF
サッカー歴:鹿島アントラーズジュニアユース⇒鹿島アントラーズユース⇒阪南大学⇒ザスパクサツ群馬
現職:多機能型事業所